当日は、お昼休み中でした。
夕飯の準備をと思い、キッチンにて作業中でした。
地震を感じ、ガスを止めましたが、思いのほか大きな揺れとなり、妻とともにあわてて外に出ました。
新所沢街道の信号機が左右に大きく振れており、停めてあった車も大きく左右にゆすられておりました。
南町小学校では、校内アナウンスが慌ただしく流れておりました。
地面が揺れるとはこういうことか・・・。
幸い二人とも問題なかったので、すぐにお互いの実家に連絡を取ろうとしましたが、携帯電話がつながらない・・・。
実家の家は倒壊してないだろうか・・・、いろいろな不安が頭をよぎりました。
しばらくすると、お互いの実家とは連絡が取れ、一安心。
その後、テレビを見ていると、『津波警報、10M以上』と、衝撃的な警報が出ておりました。
そしてすぐに福島の友人は大丈夫なのか、いやな思いが頭を駆け巡りました。
地震発生1時間後、テレビでは、これまた衝撃的な津波の映像が流れておりました・・・。
これは現実なのか・・・。
夕方には、仕事に行っていた妻の実家のお父さんと妹さんの安否も確認でき、また、私の姉夫婦も安否が確認でき、家族の安否確認ができ、とりあえず安心です。
午後の診察は、平常通りに行いました。
ご来院いただいた方々も、一様に不安がっておりましたが、その時は私を含め、まだ事の重大さに納得できていないようでした。
午後7時過ぎ、仲の良い友人が仕事場から西武線の小川駅まで歩いていけると連絡が来たので、車で迎えに行くことに。
しかし、想像以上に青梅街道は、上下線とも大渋滞。
我が家から小川駅まで、車で10分もしないで行けるところが、40分以上もかかりました。
その後、何とか友人と無事に合流し、夕飯をともに致しました。
テレビでは、千葉のガス爆発事故の映像と、気仙沼の火事の映像。
映像を見入ることしかできないもどかしさ、言いようのない不安な気持ちで一日を終えたのでした。
その後は、急にガソリンが手に入らない、食材が手に入らない、などの流通トラブル。
原発事故・・・。
水道にセシウム検出の報道後、姉の子供たちのために大雪の中、水を買い集めるため走り回ったりもしました。
福島の友人と連絡が取れたのは、数日後でした。
『ライフラインはまだだけど、大丈夫だから安心してね』
心配させまいという、友人の心使いですよね。
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震災当日から、数日の我が家の出来事でした。
皆さんのお話を伺うと、
仕事場から自宅に帰れなかった・・・。
仕事の工場が福島にあって・・・。
それぞれに大変な様子をうかがうことができます。
あの時、私たちに起きたこと、これをしっかり記憶に残し、伝えていくこと。
とても大切なことと思います。
あの日を通して、自分にとって大切なもの、大事なもの、改めて感じることができたと思います。
友人たちとのつながり、家族が元気でいること、そして奥さんが元気でいてくれていること・・・。
あの日を受け止め、そしてこれからにつなげ、明日へ向かっていくこと。
私自身、悔いの残らないよう、日々精一杯生きていこう、そう思うのでありました。